得意先倒産の苦境を飛躍の転機に

家族との対立は、金銭に関することが多かったが、それは、基本的な人の使い方に関する間題でもあった。
若林が最初に勤めた印刷会社は、けっこう社員の待遇がよかった。残業のときには、きちんと食事がでた。
ところが、若林の実家では、残業をしても、社員にはうどん一杯しか食べさせない。これでは社員に無理を頼めないと考えた若林は、ほとんど労働組合の委員長のような立場で、兄に談判をすることになった。残業させるならば、もっといいものを食べさせろ。普通がラーメンなら、ライスをつけろ。それぐらいのことをしなくては、よそとの競争には勝てない。そう談判したのである。
若林には、いい分があった。営業マンも工場も、ライバル会社に負けないように頑張ってくれている。徹夜をしたり無理をしてくれている。それなのに、待遇をよくしてやらなければかわいそうだというのである。
これにたいして、若林の兄は、
「営業マンは8時から5時の定時内にできる仕事をとって儲けてこそ有能だといえるんだ。残業しなければ仕事がとれないなんて、へタな営業マンだ」
と反論した。
これは、すでにどちらが正しいという問題ではない。兄弟同士のいがみ合いである。家族で仕事をしていると、おうおうにしてこういう対立が生じがちだ。
もっとも、若林にいわせれば、大学を出てすぐに父親の会社に勤めた兄は、1番悪いやりかたをしているように見えたことであろう。若林は、いくつもの会社で、人の使い方のいい例と悪い例を学んできた。それを見ていただけに、兄のやり方の欠点が目について仕方なかったのである。
営業の方法にしても、兄弟の対立があった。
兄は、飛び込みの営業はまったくしないタイプであった。電話がかかってくるのを待っている“待ち”の営業である。長年続いた印刷会社だけに、得意先からの注文で十分に食べていけるという土壌があったから、兄には心のゆとりがあったのである。
ここまで対立してしまうと、兄弟とはいえ一緒に仕事はしていられない。
若林は今度は工場を借り、オフセットの機械を購入して、2人の社員と共に、本格的な印刷業へのスタートを切ったのである。
仕事は一応順調だった。
ところが、今度も大きな災難にみまわれた。仕事の8割を占めていた、温水機メーカーが倒産してしまったのである。
じつは、この倒産に関して、若林は事前に知ってはいた。しかし、彼のところで温水機械の説明書を刷っていたのである。説明書がなければ、機械は出荷できない。そうなれば、さらに財政は悪化する。義侠心も働いて、若林は倒産を知りながらも、手を引かなかったのである。
しかし、運というものは、ついてまわるときにはちゃんとついてくれるものである。そのとき、新しい印刷機械導入のために、銀行に融資を申しこんでいたのが、オーケーになったのだ。設備資金用に借りた金で、若林はなんとか苦境を乗り切ることができたのである。
苦境は乗り切ったが、今度は、仕事がなくなってしまった。8割を占めていた会社が倒産したのである。ラクなはずはない。仕事がなくなり、当然、金もなくなってくる。
そこで、若林は苦肉の策として、チラシに手を出すことを考えた。パンフレットやカタログ中心だったこれまでの事業から、新しい展開に踏み切ったのである。結果的には、この選択は大成功だった。チラシならばすぐに客をつかめるし、仕事の回転も早い。つぎからつぎからこなしていけば、額も高くなる。
それには、ひとつ問題があった。手持ちの印刷機械では、チラシが刷れなかったのである。1000万円で買ったばかりで、ローンも終わっていない機械だったが、若林はそれを350万円で売りはらい、自宅を担保に入れて新たに3500万円の機械を導入したのである。大いなる賭だつたといっていいだろう。
当初は借金だけが残ったチラシへの転換だったが、金沢で最高級の機械を手に入れた若林のところには、どんどん注文がきた。若林は、昼間営業に走り回り、夜になると、印刷の現場にたった。そのおかげで、1年たたないうちに、黒字が出るようになったのである。
それ以降、仕事はとんとん拍子で増え続けていった。
さらに新しい機械を導入し、場所も広いところに移った。24時間体制で仕事を組んだので、機械の減価償却が割安になり、コストを下げることができるようになり、競争力もついていったのである。

予期せぬ実家全焼に見舞われる

会社を辞めた若林は、教員をしていた母親に頼み込んで、退職金から200万を借りた。これは、父親には内緒の金だったが、事務所を借りたり、営業車を買ったりの準備資金として、どうしても、それだけ必要だったのである。
家の仕事を手伝うとはいっても、彼は、社員になったのではなかった。印刷ブローカーとして、仕事の営業にまわり、自分の家の会社に仕事を発注していたのである。
そのとき、母親は200万円とひきかえにひとつの条件を出した。家の屋号の「わかさ屋」を継げというのである。そうでなければ、金は貸せないという。
カタカナの名前を考えていた若林だったが、「わかさ屋」というのもプロ好みで悪くないという気がした。そこに「美術」をっければ、もっと玄人っぽくなる。それで、「わかさ屋美術印刷」という名前が決定した。
仕事は、主にパンフレットやカタログを中心にした。伝票の印刷では、前の会社と競合してしまうからである。そのうえで、さらに競合をさけるために、若林は以前の得意先には立ち寄らず、まったくの新規開拓で得意先をっかんでいった。
もっとも、独立とはいっても、そこには、やはり3代続いた印刷屋の暖簾があったことは否定できない。若林は、当時を振り返ってこう語る。
「いろいろ考えてみると、親父の信用が大きかったですね。小矢部市では1番古い印刷屋でしたからね」
そうやって、一応は順調なスタートを切ったかに見えた若林の新事業だったが、そこで予期せぬ災害に見舞われた。実家が火事になり、全焼してしまったのである。当然、そこにあった工場も全焼してしまった。いくら営業してまわっても、肝心の仕事をするところがなくなってしまったのである。
そこで、若林は、自分の会社と実家を合併させ、共同して仕事をするようになった。ところが、家族というのは、ときには他人以上に対立するものである。肉親の気安さからか、兄弟や父親との対立が始まってしまった。ほとんどは金銭面でのことだったが、金の問題に関しては、他人より、家族の間のほうがタチが悪い。仕方なく、若林は再び独立を決意するようになった。