企業文化のぶつかり合いが情報交流だ

龍角散の藤井康男社長は、マルチ人間といてつとに有名だ。
社内のオーケストラに参加しているかと思えば、旧日本海軍の全艦船のモデルシップをつくる。大学で講義をしているかと思えば、さらさらとエッセイを書く。 そんな藤井社長ならば、情報についてもユニークな見識をもっているはずだと想像してまず耳を傾けさせていただくことにした。
藤井社長は、トータル・ライフ・コミュニティーに参加しているわけではないが、藤井社長を囲む角界人の集まりを通じて山口恭一とは面識がある。その意味で、とくに異業種交流に焦点をあてて話を聴いてみた。以下は、藤井社長のモノローグである。

情報というのは、ヒトなんだというのが基本的な考え方ですね。情報はあくまでもヒトが伝えるモノ。最近は日本の中小企業が構造不況のなかで行き詰っている。円高の影響で経営の苦しいところが出てきている。そうすると、政府が音頭をとって業界の交流を活性化し、なんとか活路を開こうという動きがある。
しかし、ぼくはそんな情報のコミュニケーションは、冷淡な目で見ている。成果はあまり期待していない。人と人とのコミュニケーションから役に立つ情報を引き出すためには、交流する業種が違っていなければならない。そうしなければ、お互いに刺激のある情報を得ることはできないんです。
で、なぜ違った業種や分野の人が交流したほうがいいかというと、たとえば、酒屋さんと反物屋さんでは商売の方法がまったく違っている。それがぶつかりあうということは、ふたつの違った文化がぶつかりあうっていうことなんです。北海道の人と九州の人が結婚したら、味噌汁の味つけからして違う。へたをすると喧嘩になりかねない。しかし、そこで喧嘩をするんじゃなくて、お互いの文化を認めあってこそ、初めて有効な情報が得られるんじゃないでしょうか。
現在の異業種交流団体の現状を見ていると、「なんとか自分のところだけおいしく儲けてやろう」という姿勢が感じられる。表面は仲良くしているけれど、お互いに文化のぶつかりあいなんかないから、カタチだけコミュニケーションをとっている。
しかし、べつにお世辞をいうわけじゃないけど、トータル・ライフ・コミュニティーの場合には、山口恭一氏のキャラクターから、「儲ける」ということが、後回しになっている。「なにか面白いことをやりたい」「何か自分で納得することをやりたい」という気持ちが先に立っている。周囲から喜ばれる企業の文化には、そういう姿勢が基本になければならないと思う。
だから、トータル・ライフ・コミュニティーは、これまでのいわゆる異業種交流団体とはまるで違っている。本当はべつの呼び方があったほうがいいんだけれど、とりあえずふさわしいものがないから異業種交流と呼んでおきますが、トータル・ライフ・コミュニティーでは、山口恭一氏を中心としてユニークな人が集まっているから、文化のぶつかりあいがある。
だいたい、日本人というのは、コミュニケーションが本当に下手ですよね。カラオケとかゴルフがコミュニケーションだと思っている。無駄な時間と金をそんなことに費やしている。それはね、お互いに交換する企業文化がないからだともいえる。文化がないから、コミュニケーションがとれない。 情報の基本には、やはり文化があるべきです。ことに企業と企業、経営者と経営者が情報を交換しあう場合には、やはり、それぞれの文化を交換するのでなくては意味がない。だから、一番大切なのは、企業がまず文化をもつことなんです。それがなければ、情報の交換だってできやしない。

藤井社長の持論では、情報とは、「文化を交流すること」ということになるようだ。文化のない情報など、なんの意味もないということだろう。

「何の」情報か?ではない、「誰が」伝えるかだ

パフォーマンス理論というのは、耳慣れないコトバだが、豊かな個性の内面を育て、それをいかに表現するかを研究する学問だという。CIが一時流行したが、その伝でいえば、PI(パーソナル・アイデンティティー)。自分の個性をいかに表現するかを問い掛ける学問である。
佐藤綾子氏は、日本における第一人者。実践女子大で助教授をつとめるかたわら、数多くの講演や企業コンサルティングを手がけている。そして、さきほどの藤井社長を囲む会のメンバーでもある。
彼女の意見に耳を傾けてみよう

60年代の後半頃から、アメリカの情報学者の間で、情報に対する考え方がずいぶん変わってきているんですね。そればでは、情報といえば、量と質と早さが最重要の問題だった。いかに早く、大量で良質の情報を得るかが問題だったんです。
ところが、70年代になる頃から、それに加えて、その情報が、誰によってどのように伝えられるようになったかが、問われるようになってきた。情報を伝える人によって、情報の内容がまったく異なってくるということが注目されるようになったのです。
これがつまりパフォーマンス論の中心課題なんですが、情報がだれによって、どんな顔で伝えられたかを問い詰めていく。すると、途中で情報が変わってきていることに気が付くんです。
結局、情報をどのように変質させるかが、その人の個性であるといえるんですね。情報というものは、たくさん入ってきても、それをそのまま他人に伝えるわけじゃない。取捨選択なり、なんなりの操作が加わる。それが個性なわけです。
子どもの遊びで、文章を耳打ちしてつたえていくのがありますね。
最初の子が、「○○さんが、××を食べた」といっても、何人もの子どもの口から耳を通して伝わっていく間に、「○○さんが、××を殺した」なんていうふうに変わってしまう。いまは、むしろその情報の変質のほうが興味深いと思う。
私の知り合いで、変わったガラスを作っている人がいる。コップなんかを作ったりしているんですが、たまに電話がかかってきて、「おもしろいモノ作ったから見においでよ」と誘ってくれる。いそいそとでかけていくと、“水の入らないコップ”なんていうのを見せてくれる。
でね、“水の入らないコップ”というのは、もちろん実用品じゃない。遊び心の産物なんですが、個性の表現という面から見れば、これほど特異性のあるものはないんです。コップが水な拒否することで、強烈に自己を主張している。見ていると楽しくなってくるんです。
情報の変質もこれと同じで、私は“表現化社会”と名付けているんですが、やはり楽しく変質したほうがいい。それには、情報を伝える者に、物事をタノシム心がなくちゃいけない。パフォーマンス理論からいえば、人間とは、感情を表現したがる動物というように定義できるんですが、そこではやはり、プラスの感情だけ表現するのが粋(イキ)なわけです。
情報の質・量・早さから、その伝達手段が問題になってきているという彼女の指摘は、十分傾聴に値するものだろう。たしかに現在のように、情報の氾濫している社会では、受け手側が主体性をもって選択していかなければ、情報の洪水に飲み込まれてしょう。そこには、情報を伝達する者、受ける者の個性が問題になってくるというわけだ。