バイタリティーがあるのにギラギラしていない

アルピニストの長谷川恒男氏と山口恭一が出会ったのは、山口恭一が20代の時だったという。求道者的ともいえる一徹なアルピニストの目にうつった山口恭一の姿は。
彼の第一印象は、バイタリティーがあるのに、ギラギラしていないということ。ある会合で一緒になったのだが、学生気質があって、すごくはしゃいだりして子どもっぼい面があり、しかもバイタリティーがある。
バイタリティーがある人というのは、たいていぎらぎらしているもので、目も鋭い人が多いが、彼はまったく違っている。人種が違う感じがする。この人は珍しいな、というのが最初の正直な印象だった。キャンパスにいれば、大学生としても通用しそうだったしね。会社を覗いてみると、おじさんばっかりいるなかで、仕事を楽しんでやっているという気がする。
彼のもうひとつの特長は、大勢でなにかをやろうという場合に、人になにかをやらせて自分も一緒に楽しんでしまうこと。自分で芸をするんじゃなくて、人にやらせて、それでいて自分もみんなも楽しんでしまう。これはひとつの才能だと思うんです。司会や演出の才能があるんですね。
まあ、みんなでいるときにはよく喋りますから、最初は軽く見えがちですが、巧みな話術の持ち主で、しかも相手のことをよく見ている。
どうしてバイタリティーがあるのに、そんなにギラギラしていないんだと考えると、これはまさに自分の好きなことを仕事に選び、それに生きがいをもっているからだと思います。新しい事業に手をつけたときに、回りにいる者も、彼の勉強の過程がよく見える。
たとえば、トータル・ライラ・コミュニティーの共同事業者としてカシミアに乗り出したときから、私は彼の話を聴いていました。最初は、寸法を測るのに、何か所測らなければならないというようなところから勉強を始めて、だんだん本格的になってくる。それをちっとも苦労ではなくて、面白がってやっている。それで、勉強が進んで本格的なカシミアの仕立て方が分かったけれど、「ヨーロッパだったら60数か所測って2年かけて仕立てるんだって。2年もかかったら体型が変わっちゃうよね」と笑い飛ばしてしまう。ひとつのノウハウに出会った嬉しさを、こんな風にあっさり語れるのが、彼なんです。
長谷川氏のいうように、確かに山口恭一は、バイタリティーに富んでいながら、少しもギラギラしたものを感じさせない。そのあたりが、人と人の間にいても、すこしも人に負担を感じさせない理由なのかもしれない。
人と人の間にいる人間が、あまりギラギラしすぎていると、周囲にいる人間は、それだけで気疲れしてしまう。ネットワークの中心にいる人物は、人格的にも、人の輪をあっさりとコーディネイトできなければならないということなのだろう。