人間は一人じゃない「縁」があって生きている

最後に、これ で登場いただいた方とはちょっと異色の方の意見を聴いてみた。ヨーロッパアルプスのマッターホルン、アイガー、グランドジョラスの三大北壁の冬季単独登攀に成功し、現在はチョモランマへの冬季無酸素登頂にいどみつづけているアルピニストの長谷川恒男氏である。
長谷川氏は、「人間がなにかをやって情熱を燃やしているときには、すべての人に共通したものがある」と感じたところから、経営者の集まりにも積極的に顔を出すようになっていった。「山という狭い世界に閉じ籠もるのではなく、いろいろな世界の人と知り合いたい」という氏には、人間と人間のコミュニケーションを中心に聴いてみた。
山に登っていると、自分が自然のなかで生かされていることを強く感じます。だから頂上に登りつめても、征服したなんて気持ちにはとてもなれない。山の神様が機嫌のいい時に、ほんのちょっとだけ頂上を踏ませてもらう。そんな気持ちです。
自然の掌のなかで生かされているということは、人間は人間によって支えられて生きているということでもあるんです。
独りで岩壁を登っていると、何日かするととてつもなく寂しさを感じることがある。夜独りで岩壁に宙吊りになって休んでいると、ひしひしと孤独感が押し寄せてくる。そんな時は、大声で歌をうたって元気を出したりするんですが、それでも、歌い終わってしまうとやはり寂しくなる。これはもうどうしようもない。
けれども、そんな時でも、自分を送り出してくれた人の顔を一人ひとり思い浮かべてみると、元気が出てくるんです。ちっとも寂しくなくなってくる。自分はいろんな人の応援があってい褒ここでこうして岩壁を登っていられるんだと思うと、孤独感は消えてしまう。
結局、人間というのは、どうしたって一人じゃない。みんな縁があって生きているんです。
だから、私は山の関係以外の人と会うのも大好きです。絵や陶芸に情熱を燃やしている人にもすばらしい人はたくさんいるし、ビジネスに情熱を燃やしている人にもすばらしい人が多い。そんな人はみんなきらきらしています。私は、私が出会った人との縁を最後まで見極めたいという気持ちがある。ひょっとしたら、その人とは喧嘩をするかもしれないし、私の足をひっばる人かもしれない。でも、それを含めてみんな“縁”なんです。喧嘩をする人でも、やはり縁がある。
縁があるならば、それを見極めたい。こちらから関係を切ることはせずに、最後まで付き合っていく。それはつまり自分の存在とはなにかを確認していく作業でもあるわけです。
コミュニケーションというコトバはあまり好きじゃないんで、私はあくまでも“縁”ということでいきたいんですが、そこには、やはり生かされている自分、というものが、大きく関係しているような気がします。
情報もまた“縁”のひとつとして考えれば、そのなかで“生かされている”人間の姿が浮き彫りになってくる。“情報”というものを問い詰めていけば、最後はどうしてもその中心にいる人間につきあたってしまう。