田舎に帰って悪戦苦闘

2浪が決定したころ、田舎の父親から「帰ってこい」との連絡があった。東京でわけのわからないことをしているくらいなら、帰ってきて働けというのである。
若林が父親の勧めにしたがったのには、じつは理由があった。彼は、東京での会社、に失望していたのである。
デモ仲間と始めた臨時配達員派遣会社は、「ピンハネをしない」という理想を掲げていた。
しかし、会社を仕切っていた大学生が、じつはピンハネをしていたのである。正義感に燃えていた若林は、会社で造反した結果、飛び出してしまったのだ。
石川県にもどった彼は、父親のツテで印刷会社に勤めた。通常。最初の2年間は製品の配達しかさせてもらえないところ、彼は3か月目から営業マンとして走り回るようになった。やはり、東京での会社経験がものをいったのだろう。飛び込みで営業をした結果、成績もあがりやる気も認められた。普通はなかなか教えてもらえない見積もりの仕方もすぐに社長が教えてくれた。
1年後、彼は21歳になっていたが、ある店舗設計の会社から、
「販売促進や広告、チラシなんかを店舗設計のサービスとして別会社にして始めるから、やってみないか」
と下請けの印刷会社を通じてスカウトされた。21歳にして、ひとつの会社を任されるというチャンスにめぐりあった若林は、すぐにこの話にのった。
ところが、約束とは違い、この会社では、若林に店舗設計関連の仕事しかさせてくれなかった。現場の手伝いばかりなのである。営業の仕事もさせてくれない。
そのことで文句をいうと、「室内装飾の合間にやれ」という返事がかえってきた。
しかし、現場の仕事はほとんど徹夜の作業ばかりである。2日3日と徹夜を続ける突貫工事が多かった。オイルショック前でそれだけ景気のいい時代でもあったのである。とても合間を見て印刷の仕事などできる状態ではなかった。
仕方なしに、彼はその店舗設計会社を紹介してくれた下請け印刷会社で働くようになる。そこは、夫婦だけでやっている小さな店だったが、若林が営業マンとして働くようになると、途端に景気がよくなった。自分ひとりでは手がまわらなくなった若林は、前の印刷会社で一緒だった有能な営業マンをスカウトして、その会社に引き込んだ。
活況になったその会社では、新しい印刷機械を入れたり、車を買ったりして、非常に景気が良かった。
しかし、それまで小さな印刷屋の親父に過ぎなかった社長は、あまりに人の使い方を知らなすぎた。せっかく若林がスカウトした技術者を新入社員扱いして、ボーナスを払おうとしないのである。頭を下げて頼んだ若林は、しかたなしに自分のボーナスをその技術者にわたしている。
社長に愛想をつかした若林は、
「仕事があるならば、うちで使ってやる」
という父親と長兄の誘いに応じて、独立を決意するようになった。
そのとき、若林はまだ23歳だった。