新間臨時配達員派遣会社時代の貴重な経験

若林和芳は昭和26年の生まれ。富山県小矢部市で明治12年に木版手彫り印刷を開業した「わかさ屋」の家に生まれた。印刷業を開業したのは、若林の曽祖父にあたる人物だった。
誤解のないように、あらかじめお断りしておくと、本家の「わかさ屋」のほうは、若林の長兄が継いで、現在も営業を続けている。若林は、そこからほとんど無一物で独立して、現在のグループを築きあげたのだ。
幼いころから印刷の手伝いをして育ったという若林は、地元の高校を卒業すると、東京写真大学印刷学科に入学した。やはり、カエルの子は……というべきところなのかもしれないが、この入学は、実は彼の本意ではなかった。第1志望だった大学に滑っての結果である。
「浪人するな」という父親の命令にしたがってしぶしぶ入学した若林だったが、2,3か月もすると、そろそろつまらない気分になってきた。大学での勉強は、興味がもてず、「こんなことをしていたら、駄目になる」という気持ちが沸き起こってきた。
家に帰り、「大学をやめたい」というと、両親は激怒した。高い入学金を払って直後のことである。両親の怒りももっともだろう。若林はしかたなく、家出同様に東京に戻り、新聞販売店に住み込みで働くようになる。住み込みで働きながら、自分の金で予備校に通うようになる。
そこでの生活は、後の若林を語るうえで、見逃せないものがある。内気でどちらかというと人見知りをする若林が、営業ができるまでに成長したのは、じつはこの時代の経験があったからこそなのである。
新聞販売店にいた彼は、辞めた配達員の補充でやってくる臨時の配達員が、正規の配達員の3倍の給料をとっていることに気付いた。
臨時の配達員は、新聞配達のプロである。店員が辞めたり、病気で休んでいる販売店に臨時で雇われて配達する。もちろん、プロだから、配達する家も、1回で覚えてしまう。忙しくて新人の面倒を見ている暇のない販売主たちは、少々給料が高くても、臨時にプロを雇うのである。
臨時配達員がもうかると知った若林と彼の仲間は、3人で臨時配達員派遣の会社を作る。会社とはいっても、登記などはもちろんしていない。それでも学生を集め、販売店に営業をしかけると、すぐに仕事の依頼はきた。アルバイトニュースでどんどん人を集め、つぎつぎと販売店に送り出してった。
会社を一緒にはじめた仲間は、当時盛んだった学生運動のデモ仲間だった。だから、若林は、最初、この会社にかなりかけていた。ピンハネなどできるだけしないでいこうと考えていた。
それでも、かなり会社はもうかっていた。サラリーマンンの初任給が4万円だった時代に、月に10万円くらいの収入があった。予備校の授業料や生活費も全部そこでまかなえた。いい服を買う金はあったが、できるだけボロボロの服を着て新聞店に行き、「食えない学生がやっているんです」と営業するコツも身につけた。若林は、実際の配達はせずに、ここでは営業ばかりやっていたのである。
ところが、そんな生活をしていると、肝心の大学受験のほうはおろそかになり、志望していた大学受験に失敗してしまった。2浪が決定したのである。