「一番若い」から社長になれ

三上治は、山口同様年間浪人している。浪人した結果、かねてから希望していたカリフォルニア洲立ロングビーチ大学へ入学するために渡米。語学の勉強を開始していた。
ところが、その当時、父親が経営していた書籍の販売会社が不調に陥ってしまった。やむなく帰国して、彼は父親の会社を手伝うようになった。
父親の会社はそれから1年後に閉鎖。三上は、その後、26歳までに8つの仕事を経験することになる。レジャー会員券のセールス、学習塾の営業、レストランの店長、磁気マットレスの販売など、あれこれの仕事を経験した。
そのような仕事の流れのなかで、やがて三上は横浜に支店のあった健康食品会社・東洋物産(株)に入社する。
東洋物産の大塚社長は、三上より5歳年上の若さだった。そして、その若さ通りの大胆な決断力の持ち主だった。彼は、入社3か月日のある日、社長から「独立しろ」との命令を受けた。静岡に新会社を設立して、独立せよというのである。
業務命令通り、三上は静岡に健康食品販売会社を設立。26歳で社長になってしまった。最初の1か月目は給料が払えなかったりもしたが、2か月目からは順調に進み、1年目の決算ですでに黒字が出せた。健康食品ブームに乗ることができたのである。
健康食品販売の事業を展開するうちに、昭和60年、新しい展開があった。健康食品会社数社が出資して、KSKシステムという新販売会社を設立したのである。三上は、「1番若い」という理由で社長に任命された。
このKSKが、じつはプラネッツのもとなのである。そもそも、健康食品を買うのは、主婦が多い。それならば、新しい販売システムには、主婦を組織化してしまおうという話になった。健康食品というものは、宣伝広告費をかなりかけており、かけないと販売できなかった。商売をしている当時から、三上の頭には、「ロコミが一番効果的だ」
とのイメージがあった。しかし、それをどうやってシステム化するかが問題だった。
主婦は、自分の知り合いから新製品を紹介された場合、非常に高い割合で商品るという事実があった。それを組織化すればいいのである。
たまたま、札幌の支社で、チラシの配付を依頼した会社が、主婦を組織化したポスティング会社で、そのチラシの反響は非常によかった。主婦たちは、健康食品を買いそうな家に重点的にチラシを配り、販売活動を行ったのだった。そこで、KSKシステムの当時部長であった梅田はその組織に参加、ポスティング業務のノウハウを蓄積した。そして三上と検討した結果、全国展開を決意、最初に名古屋でとりかかるのである。それがプラネッツのスタートなのだ。
三上はいう。
「ぼくはそんなに頭のいい人間ではないですから、ああだこうだと考えてやるよりも、起こってくることを見つめて、経験して、それをどんどんビジネスのプラスの方向に転換していくタイプなんです。プラネッツも、最初に始めたときは、そんなにたいそうなことを考えたわけじゃない。最初から青写真や設計図があったわけじゃないんです。実際の現場に身をおいてみて、どろどろしている部分に巻き込まれていく。それが、次のステップを生むんです。組織をどう変えたほうがいいかとか、どのように、新しい部分をつけ加えたほうがいいかとか、現場のなかにいながら考えていくんです」
その結果、プラネッツは、名古屋で50万世帯、札幌で25万世帯をカバーするネットワークに育っていったのである。
そして、目標とするのは、全国で組織可能な2200万世帯のネットワーク化。これをフランチャイズシステムで広げていこうというのである。