加盟店応募者が門前列をなした

株式会社にしたといったって、マンションの一室で営業している吹けば飛ぶような会社である。雇おうにも人はなかなか来てくれない。
新聞で募集広告を出しても、集まってくるのは、転職5,6回目というのがざら。
「近くから電話しているので場所を教えてください」
という電話が入って喜んでいても、待っていても誰もやってこないなんていうことはしょっちゅうだった。たぶん、あまりの会社の小ささに、嫌気がさしてドアの前で引き返してしまったのだ。なかには、「じゃあ、明日から来ます」といっておきながら、いっこうに姿を見せない人間も多かった。
しかし、「経営者でしか生きられない」と決意していた山口恭一にとっては、こんな苦労もなんでもなかった。マイナスはつねにプラスに転換するための材料にすぎない。
「そうか、人手が足りなくてうちで消化しきれない仕事は、掃除器具を販売している先に流し」てやればいいんだ。そうすれば、掃除器具を買ったところも喜ぶし、器具だってもっと売れるようになるはずだ」
彼にとっては、どんなものでも仕事の材料である。社員が集まらないというのだって生きた仕事の素材なのである。そこからなにかが生まれるはずだという思考回路ができ上っているのだ。
それで、山口恭一は、ハウスクリーニング代理店募集を本格的に開始する。掃除器具を販売し、そのノウハウも教えるというものである。昭和57年5月のことだった。
ただし当時はフランチャイズシステムではなく、ただの機材販売会社で、ロイヤリティー等はもらっていなかった。
しかし、ちょうどベンチャービジネスブームだったので、マスコミが目をつけてくれたのが、幸いした。それ以降、彼の会社はテレビや週刊誌でさかんに紹介されるようになったのである。
深夜のワイド番組で紹介されたときは、会社でテレビを見ていると、いきなり電話が鳴り出した。
「これはさっそく応募があったのか」
と勢いこんで電話を取ると、
「若いのによくやってますね。頑張ってください」
という励ましの電話だった。
それから何回も電話は鳴ったが、みな知人からの励ましの電話だった。仕事に結びつくものはまったくなかった。
「しょうがないなあ」
と、諦めていると、つぎの朝、会社には10数人もの人の列ができていた。彼らはみんな加盟店契約に応募してきた人たちばかりだった。山口恭一の会社から掃除器具を買い、ノウハウを指導してもらおうと、100万円以上の現金を手に、会社の前に並んでいるのである。
そんなことを続けているうちに、加盟店は昭和59年までのまる2年で、200を数えるようになっていった。