「何の」情報か?ではない、「誰が」伝えるかだ

パフォーマンス理論というのは、耳慣れないコトバだが、豊かな個性の内面を育て、それをいかに表現するかを研究する学問だという。CIが一時流行したが、その伝でいえば、PI(パーソナル・アイデンティティー)。自分の個性をいかに表現するかを問い掛ける学問である。
佐藤綾子氏は、日本における第一人者。実践女子大で助教授をつとめるかたわら、数多くの講演や企業コンサルティングを手がけている。そして、さきほどの藤井社長を囲む会のメンバーでもある。
彼女の意見に耳を傾けてみよう

60年代の後半頃から、アメリカの情報学者の間で、情報に対する考え方がずいぶん変わってきているんですね。そればでは、情報といえば、量と質と早さが最重要の問題だった。いかに早く、大量で良質の情報を得るかが問題だったんです。
ところが、70年代になる頃から、それに加えて、その情報が、誰によってどのように伝えられるようになったかが、問われるようになってきた。情報を伝える人によって、情報の内容がまったく異なってくるということが注目されるようになったのです。
これがつまりパフォーマンス論の中心課題なんですが、情報がだれによって、どんな顔で伝えられたかを問い詰めていく。すると、途中で情報が変わってきていることに気が付くんです。
結局、情報をどのように変質させるかが、その人の個性であるといえるんですね。情報というものは、たくさん入ってきても、それをそのまま他人に伝えるわけじゃない。取捨選択なり、なんなりの操作が加わる。それが個性なわけです。
子どもの遊びで、文章を耳打ちしてつたえていくのがありますね。
最初の子が、「○○さんが、××を食べた」といっても、何人もの子どもの口から耳を通して伝わっていく間に、「○○さんが、××を殺した」なんていうふうに変わってしまう。いまは、むしろその情報の変質のほうが興味深いと思う。
私の知り合いで、変わったガラスを作っている人がいる。コップなんかを作ったりしているんですが、たまに電話がかかってきて、「おもしろいモノ作ったから見においでよ」と誘ってくれる。いそいそとでかけていくと、“水の入らないコップ”なんていうのを見せてくれる。
でね、“水の入らないコップ”というのは、もちろん実用品じゃない。遊び心の産物なんですが、個性の表現という面から見れば、これほど特異性のあるものはないんです。コップが水な拒否することで、強烈に自己を主張している。見ていると楽しくなってくるんです。
情報の変質もこれと同じで、私は“表現化社会”と名付けているんですが、やはり楽しく変質したほうがいい。それには、情報を伝える者に、物事をタノシム心がなくちゃいけない。パフォーマンス理論からいえば、人間とは、感情を表現したがる動物というように定義できるんですが、そこではやはり、プラスの感情だけ表現するのが粋(イキ)なわけです。
情報の質・量・早さから、その伝達手段が問題になってきているという彼女の指摘は、十分傾聴に値するものだろう。たしかに現在のように、情報の氾濫している社会では、受け手側が主体性をもって選択していかなければ、情報の洪水に飲み込まれてしょう。そこには、情報を伝達する者、受ける者の個性が問題になってくるというわけだ。